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2008/06/25

「○○年前」~江戸時代、人々はいかにして計算したか

星田直彦さんのHP 雑学のすゝめ「素朴な疑問」 という面白いコーナーがあります。メルマガ読者から寄せられた疑問に、他の読者が答えるというものです。

080624 「シュウマイにはなぜグリーンピースがのっているの?(疑問No.009)」 とか 「息を吹きかけるとき『ふぅ』と『はぁ』で暖かさが違うのはなぜ?(疑問No.054)」 とか 面白い疑問と、へぇ、なるほどなぁ という回答がいっぱいあります。

そこに、次のような疑問があったので、考えてみました。皆さんも考えてみて下さい。

疑問
江戸時代の人は、「何年前」というのをどうやって計算した?

分かりました?

もちろん、僕も江戸時代に生まれた知り合いはいないので、聞いたことがなく、本当の所は分かりませんが、下のように推測してみました。星田直彦さんの雑学のすゝめにも掲載されているのですが(素朴な疑問No.663)、あまりに長文だったため、要約して頂きましたので、ここには全文を掲載します。

Koshien_2 恐らく 干支 えと を用いたのではないでしょうか。子、丑うし、寅とら、・・・の 十二支 の方だけではなくて、甲きのえ、乙きのと、丙ひのえ、・・・の 十干 とセットのほうです。(甲子園は「甲子」という 干支 の時にできたからそう名づけられたのですが、和名では「きのえね」の年ということになります。)

今は、年賀状でおなじみの十二支はともかく、十干の方は影が薄いですが、西暦が採用される前は便利だったと思います。それは、

きのえ、乙きのと、丙ひのえ、丁ひのと、戊つちのえ
つちのと、庚かのえ、辛かのと、壬みずのえ、癸みずのと

と十個で構成されているからです。例えば、今年の干支は 戊子つちのえね ですが、10年前の1998年は 戊寅つちのえとら、20年前の1988年は 戊辰つちのえたつ と、いずれも最初に十干の つちのえ がつきます。だから、 つちのえ のつく年なら、今年から10n年前(nは整数)とすぐ分かります。あとは、甲子きのえね のように がつく年なら の4つ前ですから、10n+4 年前、 壬申みずのえさる のように のつく年なら の4つ後ですから、10n-4 年前といった具合です。

n の部分はどうするか? 

十干の相棒の十二支で考えるのです。

干支は10個から成る十干と12個からなる十二支で構成されるため、その最小公倍数の60種類があります(還暦はこれを基にした習慣ですね)。

十干を中心に考えれば、各要素の相手となる十二支は六個に限定されるわけです。たとえば、つちのえ とくっつくのは、たつとらいぬさるうま に決まっており、順も今示した通りで固定されています。

つちのえ が十干の5番目だから、最初は十二支で5番目の たつ とさえ分かれば、あとは十二支で一つ飛ばしで後戻りする順になります。
たつ の2つ前はとら 、その2つ前は ね 、さらに2つ前は 、次は さる 、さらに といった具合です。

戊午 から 戊戌 なら うま、ひつじ、さる、とり、いぬ で、うま の4つ後が いぬ だから、干支の相手としてはその半分の2つ前(一つ飛ばしだから「半分」になり、後戻りだから「前」)となります。、すると2×10=20で、20年前と分かります。このことを利用すれば、次のように計算できます。

例)キャンディーズが解散したのは何年前?

西暦なら、今年の2008年から、3人が普通の女の子に戻ると宣言したのが1978年だから2008-1978で30年前(!!!)とするところですが、干支なら、さしずめ次のように。

あれは確か、怪物と呼ばれた耳のでっかいピッチャーがタイガースにドラフトされユニフォームに袖を通すことなくトレードされた空白の一日事件があったのと同じ年じゃったなぁ。

そうじゃ、戊午つちのえうま じゃ。

藤原道長が四女の威子を後一条の皇后とし、皇后・皇太后・太皇太后を全て自分の娘で占めた得意で「この世をば」の歌を詠んだ年や、不平等条約を押し付けられた年、それに、第一次世界大戦で景気がよくなったと思っとったのに、米騒動でわやになった年なんかと同じ干支じゃ。

おっと脱線してしもうたわい。戊午つちのえうま ということは うま じゃな。今年の戊子つちのえね から、うし、とら、う、たつ、み、うま、と六つ後じゃから、干支の相手としては半分の三つ分前じゃな。ということは三十年も前のことか。

このように、十干の方が一緒の年なら、10の倍数になるので、簡単です。

十干が異なる場合は、それに ひとてま かければOKです。次の例をご覧下さい。

応用例:十干が一致しない場合)ビートルズ来日は何年前?

西暦なら→ 1966年だから、2008-1966で、42年前。

干支なら↓

きのこみたいな頭の兄ちゃんが来たのは、丙午 ひのえうま で、新生児が前後の年より少なかったのう。

ひのえ じゃから、今年の 戊子つちのえねつちのえ の二年前じゃな。これはちょっと置いといて、と。

うま の二つ後は、うま、ひつじ、さる で、さる じゃな。するとさっきのと合わせて戊申 つちのえさる か。

こいつは さる で今年の  の八つあとじゃから半分の四つ前で四十年前。さっき置いといた二年とあわせて四十と二年前。

という具合に、まず、目標の年から今の干支と同じ十干の干支までの年を数えてから、後は最初の例と同じように考えれば案外簡単に求まります。

面倒な感じがしますが、それは我々が西暦や算用数字に慣れているからでしょう。

昭和でさえ、敗戦後しばらくまでは通知表が こう、 おつ、 へい、 てい と表示されていたことからすると、

が1番目、が2番目、が3番目、が4番目、・・・

というのは、江戸時代の人には生活のごく当たり前の知識として、考えなくてもパッと使えるものだったはずです。我々が、Aの三つ後はDとすぐ分かるように。

また、江戸時代は縦書きの漢数字で、多変数の方程式 や 行列式に相当するもの を扱った関孝和を輩出した時代です。一般の人の計算能力もバカにできないものがあったに違いありません。

干支は60個しかないやんけ!

60年以上前はどないしてくれんねん?

という疑問をお持ちの方もあるかもしれませんが、普通の人が60年以上前のことを日常生活で考えることは、ほぼないので大丈夫です。

例えば、あなたは、60年以上前のことを日常生活で考えたことが今までに何回ありますか?

あまりないのではないでしょうか。少なくとも僕は歴史の時間以外にはありません。現代でもそうですから、平均寿命が短かった江戸時代以前の人にとってはなおさらです。

じゃ、じゃぁ、役人なんかが、60年以上前のことが、必要になったらどないしてくれまんねん?

それは、慎重にやるだけです。日常生活と違って頭で考えるのではなく、資料をもとに紙を使って考えればいいので、それほどたいしたことはありません。

ちなみに1)
コウ、乙 オツ、丙 ヘイ、丁 テイ、戊 ボ、己 キ、庚 コウ、辛 シン、壬 ジン、癸 キ

かのえ、かのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと

と和名で呼ぶのは煩雑な気がしますが、「甲」と「庚」が四声がなく母音が少ない日本語では同じ「コウ」になるためだと思います(現代の中国語では「甲」はjiaの第三声、「庚」はgengの第一声と似ても似つかない音で、古代でも恐らく全然別の音です)。

また、和名は、五行説の 木、火、土、金、水 をそれぞれ、 き・ひ・つち・かね・みず と訓読みし、間に をはさんで 「兄、弟」 にあたる をつなげたものです(「かねのえ、かねのと」は連声で「かのえ、かのと」となりますが)。

兄弟はもちろん、木火土金水も昔の人にとってはおなじみの順番ですから、結構、彼らにとっては分かりやすいものだったのではないでしょうか。アラビア数字を頭に思い浮かべて順番を考える我々と違って、旧暦では年だけでなく、日も干支で表しており、日々接していたものですし。

ちなみに2)
十干は日本史、中国史、朝鮮史を学ぶときに、ちょっと便利なことがあります。十個だから、次のように常に西暦の下一桁と一致するからです。

例えば、甲子きのえね の192年(大正13年)にできた甲子園はだから

67年の壬申の乱(じんしんのらん)は

戊辰戦争は大政奉還の1867年か明治元年の1868年かどっちだったっけ?
と迷っても、であることを思い出せば、すぐに186年が正解と分かります。

朝鮮出兵とまとめられる 文禄の役(ぶんろくのえき、1592年~) と 慶長の役(けいちょうのえき、1597年~) のうち、朝鮮・中国で 壬辰倭乱 じんしんわらん と呼ばれるのはどっち?
となれば、ですから文禄の役と断定できるわけです(慶長の役の方は、丁酉倭乱 ていゆうわらん)。

ちなみに3)
昭和や明治のように長く続いた元号なら元号を使って何年前かを計算することもできますが、明治時代に一世一元の制が定められる前の元号は、天皇践祚 (せんそ:新しい天皇の即位) 以外にも、甲子改元 (こうしかいげん:干支が最初に戻ったときに元号を変えること)、辛酉革命 (しんゆうかくめい:辛酉という干支の際に天命が改まるとされていた) などの際に改められるのがほぼ定例となっていました。

また、瑞兆が見られたり、好ましくない出来事が起こったときにもたびたび改元されました。天平文化で名高い 「天平」 はめでたい亀が現れたために 「神亀」 から改められたものですし(「神亀」も白い亀の出現により定められたもの)、桜田門外の変が起こった後には、安政の大獄の 「安政」 から 「万延」 に変えられました。その「万延」は、西暦で言えば、1860年4月8日~1861年3月29日 と1年足らずしか使用されませんでした。

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コメント

十干十二支の略したのが「干支」であること知ってる人はまずい無いといっていいくらい「十二支」の方が優先されていますよね

投稿: 玉井人 | 2008/06/25 19:53

玉井人さん、いらっしゃいませ。

僕も高校の日本史で教わらなければ、ずっと知らないままだったかもしれません。
子供の頃、家にかかっていた日めくりカレンダーに平仮名で「みずのと」だの「かのえ」だのと書かれていたのは覚えているのですが、その頃はとても日本語であるようには思えず、気味悪く感じていました。

投稿: 圭太 | 2008/06/26 09:13

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今年の干支(えと)は「丁亥」(ひのとい)で十二支が最後の年である。干支(えと)の十二支は12で人生の一サイクルなるような意味があるのを御存知だろうか? 「子」は始まりを表す「一」と終わりをあらわす「了」が合わさったもので時間的にも23:00... [続きを読む]

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